たとえば、あなたにはこんなことがありませんか?
a
●「もうちょっと周り見ようよ」「人のことを考えよう」という指摘をされる
● 子供の頃は(なんなら今も)よく物や人にぶつかる・ぶつかりかけた
(or 気づくと記憶のないあざができている)
●集中力や、好きなことへの情熱の傾け方やパワーを指摘される
● いきなり立ち止まったり方向転換して、 後ろからくる人に驚かれる
● 隣の人がいつからそこにいるのか わからないことがけっこうある
(そもそも気にしてない)
● 嫌ならやらなければいいし、気にしなければいいじゃん、と思う
● 不本意だが天然だと言われる
それともこういうことが多いでしょうか。
b
● 「気にしすぎじゃない?」と言われる
● 見たくなくても見えちゃうんだって!と思う
●「上から目線だよね」「冷たい」と言われるのが 理解できないし落ち込む
● 物理的に聞こえるはずの距離の声は、当たり前に聞こえているはずだと思う
●「外から見えること」を基準にいろいろ類推する
● 頭の中でよく考える主語は「ふつうは」
● 基本計算しているし予想して動くので、天然な人がうらやましい
これでピンとくるか、こないかわかりませんが
じゃあなんでそういう違いが出るのでしょうか。
人類には、どうやら下の2パターンの認識の仕方があるようです。
モニター視点と
全体ベース、広がりっぱなし、関係性、多アングル、客観情報
光源(ライト)視点です。
自分起点、照らしたものを認識&範囲が変化、一方向、主観(直接)情報
常に「全体」があるのが特徴です。
RPGやボードゲームを眺める視点。
現実と並行して
「全体をシミュレーションしたゲームボード」(ふつう世界)
のようなもの を持っている
とでもたとえられるでしょうか。
いろんなものを条件化、平均化した、架空の想定世界。
「今全体がこうなっている」
「あの人がこう」
「この場のルールはこう」
そしてその盤上のネットワーク…関係性や
それぞれの役割や条件を考える。
それを外から見ている視点がある。
後者がイメージするのは難しいのですが、
例に挙げたように、ボードゲームをやっている感じと思っていただければ。
ゲームをしていれば、ルールや設定や場の状況、パワーバランスを捉えるのは大事ですし、他人の行動や、他人の打った手の意図、自分の打つ手の効果・・・そういったものを計算したり、読んでいきますよね。
もちろん、盤の解釈や見方、やりこみ度合い、プレイヤーとしての癖や能力は人それぞです。
でもこれ自体は性格でも能力でもなく、前者の初期装備です。
子供ですらやっています。
何を考えるでもなく、ただただ それが当たり前なんです。
言ってみれば、呼吸。
え?全人類やっていますよね?
くらいの感覚です。
当たり前すぎて、言われても、改めて「それ」を指摘されていることが逆にピンとこない可能性まであります。
誤解してほしくないのですが
後者が「全くやっていない」「できない」ではないですよ。
ただそれは「やれば」「訓練すれば」「意識すれば」なのです。
前者はそれが自動。
「見ている」のではなく、「見える」「見えちゃう」なのです。
「見なけりゃいいじゃん」ではないのです。
また盤上の情報は常に自動更新されています。
ゆえに・・・
冒頭の例も基本的に この仕組から説明ができます。
そして、前者は
人類はみなそういうものだ と思っています。
(程度の差や、一部の例外はいるにせよ)
後者もそうですが、世界の半分の人にとっての「もうひとつの人類の当たり前」を 知らずに生きているのです。
では後者はどうなのか。
後者の認識の仕方は、常に「自分」が起点で中心です。
自分が主役!
自分が「自分の世界」の中心!
むしろ世界=自分!
イメージとしては
顔面にサーチライトや、大きなカメラが1つ
自分が見たものが世界。
「自己中心的」という言葉がありますが、他意なくフラットに、文字通りに、そういう認知です。
また、前者は客観的にデータが増えるイメージですが、
後者は、主観的な「自分」が拡大するイメージ。
自分の島が充実していく、というか
自分の世界に対象を取り込みながら成長するイメージです。
起点が1つですので、視野がすぐに変化・開閉するのが特徴です。
(視野に関しては、ライトの種類や範囲は変えられるので 狭い人も広い人もいます)
死角が出やすいかわりに、エネルギー投下量が高い。
そして後者の認知の特徴であり
人間関係でつまずく際の最大の原因になるのが
認識が一方向的なこと
そしてそれに自覚がない。
ということに尽きます。
後者は常に、自分→何か、という視点でものごとを認識するため 「相手から見える自分」というものが意識内にありません。
頭ではもちろん知ってはいますが、リアリティがゼロなのです。
なまじ
・相手の「気持ち」の想像
・自己客観視や俯瞰
・「人目を気にする」
などはしている人も多いだけに
他人視点=「どう”見える”か」を考えていない
ことに自覚がない。
ダイレクトな気持ちや人目は考えるけど
具体的な相手の「立場」「条件」でものを考えない。
そこから自分を見られない。
視点の立ち位置を変えるのが苦手。
そのため
・よかれと思ってやったことが、相手や周りに白い目で見られる
・注意されても「やっているつもりなのに・・」と思ったり
・何を指摘されているのかがそもそもわからない
・善意を悪意に誤解される
と、本人も疑問に思って、苦しんだりします。
また視点の「起点」が、常に自分と強く紐ついているため、自分を客観的に条件化する、ということも苦手です。
といっても、開き直った人のほうが結局生きやすく、素直さがあれば、なんだかんだ憎めないと思われて周りに受け入れられていたりするので、無理をすることでもないのだとは思いますけれども。
ゆえに・・・
などの特徴があります。
個人的には、後者のあり方のほうが 幸福ではないかと思うんですよね。
前者っぽいことを目指したり
「しなきゃいけない」と思っている後者は多いですが
そんな大したことは する必用も、競う必用もないんですよ。
自分を活かす、とか、周りと上手くやる、とか
充実や幸福を得る、みたいなことなら。
現代社会への 最低限の適応条件
古来から伝承される最低限の躾
軋轢や空回りを生んでいるポイントへの 調節
素直さ
みたいな「引っかかっている一部の条件」をなんとかすることで
後者は、才能がはっきされるし、社会の中に活きていく、と思っています。
あ、努力がいらないということじゃないんですけど。
むしろ後者は初期努力を逃げないことで、逆に楽になります。
(理由は「情報処理」の項目で)
後者の処世術的なことは、「書庫」にいろいろ記事リンクを載せていますので、ご参考くださいな。Podcastでもよく取り上げています。
以上が1つ目の 前者と後者の違いです!
学習や努力で 俯瞰や客観は身につけられます。
またシチュエーションによっては、後者も前者っぽいことするし、前者も後者っぽいことはします。
これは初期設定がどうか、ひらたくいえば気を抜いたベース状態がどうか、という話になります。